おさーんも記事の中で書いている亀戸と諏訪。これまで何も解説せずさらっと書いてきたが、ある筋から地名の話が分からんと言われてしまった。
しかたないので今更ながら少し記しておこうと思う。なお、この話はWiki含めどこでも書かれている話だ。このため、多少の誤りがあっても大目に見てほしいのである。

さて、まず亀戸と諏訪だが、これは工場のある場所の地名を取って呼ばれている。
  • 亀戸=第二精工舎
  • 諏訪=諏訪精工舎
これが地名と会社名の関係だ。

亀戸と諏訪のかんたんなおさらい

1.すべての源、セイコーの時計工場「精工舎」ができたの巻


服部金太郎は服部時計店を興し、1892年に自社で時計を生産する工場をつくる。この工場の呼び名が精工舎。会社名のような名称だが、その実単なる工場の部門名である。
精工舎ではまずクロック(掛時計・置時計)を生産を開始し、ほどなくウォッチ(懐中時計・腕時計)にも進出する。1937年にウォッチ製造部門を分離し「第二精工舎」という社名で法人化。クロック部門はそのまま精工舎が生産を継続。

1970年にようやく精工舎自身も服部時計店から独立し、株式会社精工舎となる。
精工舎は1996年に会社分割し、セイコークロックとセイコープレシジョンというふたつの会社になるが、2020年セイコープレシジョンは解散した。その後セイコークロックは2021年にセイコータイムシステムと経営統合し、現在はセイコータイムクリエーションとして存続している。

文章で書くとさらっと流れていきますが、服部時計店の創業は1881年(明治14年)です。15年前は江戸時代です。世界の工場たるアメリカでも、本格的な時計の国内製造が開始されたのは1850年代後半です。黒船来航は1853年ですが、それまで200年以上鎖国してた国が日本です。服部金太郎の先見性が凄いですよね。


2.これが亀戸だ!腕時計製造の礎となる第二精工舎


さて、精工舎から1937年にウォッチ部門として独立した第二精工舎だが、本拠地は亀戸にあった。これが現在「亀戸」と場所で呼ばれる所以だ。
その後1941年に太平洋戦争が勃発。本土空襲に備え、第二精工舎は工場をいくつかの場所へ疎開させる。1943年に諏訪に疎開させた工場が諏訪精工舎の元となる第二精工舎諏訪工場だった。
終戦後、東京は壊滅状態のなか、1949年に諏訪工場以外の疎開工場を再び亀戸へ集約し、本格的な生産を再開する。第二精工舎はその後、セイコー電子工業→セイコーインスツルメンツ→セイコーインスツルと名を変え、現在に至っている。

戦争で東京は壊滅状態。疎開工場で生産をスタートさせるにせよ、物資の供給や体制など、まともに稼働できたのかどうか。第二精工舎の復興には時間がかかり、ようやくまともな生産体制が整うのは1949年だったそうです。


3.一方そのころ工場疎開先の諏訪では、諏訪精工舎設立

第二精工舎が諏訪に工場を疎開させるほんの少し前、服部時計店の元従業員が諏訪で営む時計販売・修理業に、服部時計店と第二精工舎が出資して大和工業を設立する。大和工業は、第二精工舎の協力会社として、腕時計の部品製造や組み立てを行う。
第二精工舎が諏訪へ工場を疎開すると、協力体制はさらに強化され、戦後になっても協力体制をそのまま維持。各地へ疎開した工場が亀戸へ戻る中、第二精工舎諏訪工場はそのまま諏訪に残っていた。
こうして第二精工舎諏訪工場と大和工業は、腕時計の設計から製造までの一貫した生産体制を確立する。
そして1959年、大和工業は、第二精工舎から諏訪工場を譲渡。社名を大和工業から諏訪精工舎へ変更する。これがいわゆる諏訪である。

諏訪精工舎はその後もセイコー腕時計の主力機種を開発・製造。1961年諏訪精工舎から信州機器という子会社を設立する。後に信州機器は社名を変更しエプソンへ。さらに1985年には、一度は別れたエプソンと諏訪精工舎が合併、社名をセイコーエプソンに改め現在に至る。(セイコーHDとは協力関係にあるがここまで親子関係なし)

余談だが、2001年にセイコーエプソンはオリエントを子会社化している。現在オリエントはセイコーエプソンが保持するブランドである。

諏訪への疎開中に一貫した生産体制を構築したことが大きなポイントです。また諏訪周辺は、米軍の爆撃報告書に諏訪の名前がなかったことから、米軍の空襲被害から免れた可能性があります。(なんで無事だったのか調べてみた)
このため、空襲の被害も少なかったと思われる諏訪は、物資の問題はさておき、戦後早くから生産体制は整っていたと思われます。しかも開発から製造までの一貫体制が確立されていたとなれば、第二精工舎の復旧が進まない中、この地が戦後しばらくの間、セイコー腕時計の主要生産拠点であったことに疑いの余地はありません。戦後常に諏訪から最初のモノが出てきたのは、まともに稼働するのは諏訪しかなかったからなのだと思われます。
現在セイコーエプソンである諏訪精工舎は、当時から服部時計店及びセイコーHDの子会社ではなく独立した企業です。

なお、オリエントはその昔(子会社化以前)セイコーのムーブメントをベースとした時計を販売していたことがあります。
昔から技術協力などの関係性がセイコーとあったことが、最終的に子会社化へ繋がったのかもしれませんね。

ふぅ。まとめるのに疲れた。では次。


第二精工舎と諏訪精工舎が生産していた腕時計について

亀戸が拠点の第二精工舎は、服部時計店の子会社とはいえ、腕時計製造部門としてはグループ内本拠の扱い。
一方の諏訪精工舎は、大和工業という第二精工舎の協力会社を元とするセイコーの協力会社。
当時から第二精工舎と諏訪精工舎に親子・兄弟関係はなかったらしい。
だが、戦後復興後のグランドセイコーをはじめとするセイコーの紳士腕時計製造の中心は、常に諏訪精工舎の製品群だった。1950年から1960年初頭の諏訪精工舎の製品は、スーパー・マーベル・ロードマーベル・クラウン・グランドセイコーと名機主力がずらりである。
協力会社の製品が、主力かつ高級品であったことが、同じ腕時計を作る第二精工舎でどのように受け止められていたのか定かではない。こうした背景が原因だったのか知る由もないが、50年代後半から60年中頃にかけて、準高級機・中級機・普及機とあらゆるレンジでバチバチやりあっていたのがこの2社だ。
まぁこのあたりは全ておさーんの勝手な妄想だ。だが、発売された製品を見ると、これを販売政策としてやってたとしたら普通におかしいので、張り合ってたんだろうなと想像するわけである。

戦後復興期から1960年代初頭までに販売された主な手巻き腕時計をセグメント別で並べてみた。自動巻や薄型機の位置づけやフェアウェイがないぞとか異論はいろいろあるだろうが、おさーんは自動巻が守備範囲ではなく、まぁ素人が整理したという事でご容赦を。

seikowatch
※ロードマーベルは高級機の期間が短いので準高級機に位置づけ
※ライナーはクロノメーターが高級機だが、便宜上薄型機として位置づけ


プラットフォーム(ムーブメント)を共有してやるなら、バリエーションを増やすという意味では問題ないが、それぞれのキャリバーは両社の独自開発(戦後復興期を除く)。これでは開発コストや製造コストも二重投資で無駄だらけ。しかもKS・GSを除けばポジショニングもまる被り。さすがにこうした関係も後に改善され、本来の協力体制を取るようにはなるが、10年以上はこうした状況だったのではないだろうか。
だが、以前も書いたが、無駄なお金も大量に使っただろうが、良く言えばこの切磋琢磨な関係がそれぞれの技術革新を推し進め、国内におけるセイコーの技術・デザインなどの盤石な基盤を作ったといえるのは間違いなさそうだ。おさーんが子供の頃(昭和40年代後半~50年代)セイコーの時計は他の国産品より地位が高かった。とりあえずセイコー買っとけば間違いないといった感じだった。→あくまでも子供の印象

ーーー
◆ちなみにおさーんが子供(小学校高学年から中1くらい)のころの認識(1970年代末)
※この当時のおさーんはスーパーカー小僧を維持したままパソコン小僧となり、YMOにとてつもない衝撃を受け、それしか聴かないという著しく歪んだ子供だった

服部時計店
中学の頃はまだこの社名だった。既に小学校の中学年の頃、叔父さんから知る人ぞ知る時計としてキングセイコーの話を聞いていたので当然知っていたが、逆にグランドセイコーは知らなかったかもしれない。おさーんがグランドセイコーへ行かずにキングセイコー界隈でうろうろしているのはこの刷り込みが原因と思われる。
だが、なぜ叔父さんがキングセイコー推しだったのか今考えれば不思議だ。そろそろ時間もないので叔父さんが死ぬ前に今度聞いてみよう。→鬼畜


精工舎
服部時計店から独立した精工舎は半導体事業にも進出しており、パソコンや各メーカー向けの周辺機器の製造も行っていた。当時のおさーんにとって、精工舎という名は古臭い名前のプリンタメーカーだった。

エプソン(旧信州機器)
諏訪精工舎の子会社であった当時のエプソンも、1970年代中頃より半導体事業に進出、1980年初頭に持ち運び可能なハンドヘルドコンピュータと呼ばれるパソコンがヒットし当時は結構有名だった。その製品と社名(広告はEPSON表記だった)から、最初はアメリカのパソコンメーカーかと思っていた。

第二精工舎・諏訪精工舎
そんな会社まったく知らん。(ロードマーベル買おうとしたとき知った)

◆セイコー以外のイメージ

カシオ
デジタルはカシオ♪→百恵御大

シチズン
デジアナ

オリエント
印象無し